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おさかなのゆくえ

大北湊と、ベタの一生。

その魚は当時付き合っていた彼女が買ってきたものだった。 小さな瓶に入れられて、ゆらゆらと長い尾ひれを揺らしていた。俺が「どうしたの」と聞くと、彼女は「綺麗でしょ」と言って微笑んだ。さも自分のテリトリーみたいな顔をして、リビングの棚の上に魚の入った瓶が置かれた。ここ、俺の家なんだけど、と言おうか迷ったが、言ったところでこの魚は持ち帰って貰えないだろうと思い何も言わなかった。 魚はベタと言う種類の魚だった。複数で飼うと、気が強すぎて傷付け合ってしまうらしい。彼女はベタの様子を見に来るという口実で、たまに俺の家に来るようになった。彼女がいない日は、ドラッグストアで買った魚の餌を俺が瓶の中にばら撒く。ベタは餌をあまり食べなかった。狭い瓶の中でゆらゆらと揺れているのを見ると、かわいそうに感じた。だが、当時俺はまだ今のマンションではなく狭いワンルームに住んでいたし、これ以上生活する空間が圧迫されても困るので、ベタは彼女が持ってきた瓶で飼育したままにしておいた。適切な飼育環境でないことは分かっていたが、俺が買ってきた訳でもないんだし、と思い最低限の世話だけをしていた。そのうち、俺たちは別れて、彼女はベタを見に来なくなった。 狭い場所で飼育されるストレスのせいか、ベタの綺麗な尾ひれは裂けてきてしまった。俺はそれに気が付いて、慌てて少し大き目の水槽をディスカウントストアで買ってきてベタを移し替えてやったが、一週間と経たずにベタは死んでしまった。俺は悲しかった。俺が家に帰ると、丸いお腹をぷかぷかと天に向けて水に浮いていた。長い尾ひれは生きている時と変わらず、静かにその存在を主張するように揺れていた。 そっと両手で水面から救い上げて、ティッシュの上に亡骸を置く。小さいが、スーパーで売っている冷凍の魚と同じような形だと思った。まだ死んでから時間が経っていないせいか鱗はきらきらと輝いて蛍光灯の光に反射して虹色に光っていた。こんなにしっかりとこのべタのことを見たのは初めてだったかもしれないと思い、生きていた時にもっと丁寧に世話をしてやらなかったことを少しだけ後悔した。ティッシュでゆるく亡骸を包み、キッチンにあった小さな紙袋に入れてテープで留める。 生き物の死骸は、ごみとして捨てるしかなかった。 𓆟 𓆟 その日は朝から小雨が降っていた。せっかく三人で過ごす休日だったが、どこかへ出かけるのも億劫で、でも一日中家にいるのもつまらないという話になり、車で少し遠出して大きなホームセンターに行くことになった。 「僕、あんまりホームセンターって行ったことないです」 運転席でハンドルを握る大崎くんが言った。今日は大崎くんが運転をして、助手席に北くん、俺は後部座席という並びだった。 「都心に住んでいるとあまり行く機会もありませんよね、僕は学生のころによく両親と行きましたけど」 「俺もそんな感じ、まあ大きいホムセンって地方にしかないからね」 今日ホームセンターに行くことになったのは俺の提案だ、インターネットで見かけた卓上製氷機が気になったのだ。リビングでお酒飲むとき、一々キッチンまで氷取りに行くのって結構面倒くさいから。 「湊さんが欲しいものあると良いですね」 「ねえ、まあ急ぎで絶対欲しいって感じじゃないから、なくても大丈夫なんだけど」 そう言いながらスマホで卓上製氷機について調べる。色々レビューがあるが、やはりホームセンターの製品が一番価格も手頃で性能も良さそうだ。ついでに今日は生活消耗品も買ってしまおう。人手があると買い出しが楽で助かる。 ホームセンターに着いたら思ったより駐車場が混んでいて、屋上駐車場に車を停めることになった。その頃には雨も少し弱まっていて、駐車場から店内に入るのにもそんなに濡れることはなかった。 「アイスの自動販売機がある!」 お店に入ってすぐ、大崎くんはアイスや飲み物の自動販売機、ガチャガチャが並ぶコーナーに吸い寄せられる。大方、子供が飽きてしまわないように設けられたものだろう。 「運転してくれたし、何か一つ好きなの選んで良いよ」 「わーい! 何にしようかなあ……」 大崎くんがどれにしようかウンウン唸っているのを北くんと見守る。北くんは糖質を避けたい時期とのことで、アイスは食べないだろう。俺も今は甘いものの気分じゃないや。 大崎くんは結局バニラアイスにカラフルなチョコスプレーが埋め込まれたものにしたようだ。こういうアイスも、俺が子どもの頃とはラインナップが変わったなあと思う。 「食べ終わったらお店見ようか」 このホームセンターは二階建てになっていて、二階は大きな駐車場とこの自販機コーナーしかなかった。店舗部分は一階のみだが、これだけ駐車場が広いんだから、店舗部分の面積もきっと相当なものだろう。 「わあ、すごく広いですね!」 「ここが都内最大らしいよ、こんなに広いとどこから見るか迷っちゃうよね……大崎くん、カート持ってきてくれる?」 そうお願いすると、大崎くんはすぐに大きなカートを持ってきてくれる。人間が二人入って運べるくらいの大きさだ。押したさそうにしていたので、そのまま押して歩いてもらう。 自動製氷機はキッチン家電のコーナーにあった。実物を見てみると思ったより大きいかもしれない。実際自分の家にあるところを想像しつつ悩んでいると、大崎くんが大きな箱を抱えて駆け寄ってきた。 「湊さんのお家に製氷機を置くなら、かき氷機も欲しくないですか?」 「いるかなあ……」 「プロテインを凍らせてかき氷にしたら、北くんも一緒に楽しめますよ!」 「むむ、じゃあ採用」 三人で楽しめるなら、と思い俺は製氷機とかき氷機をカートに乗せる。北くんは近場でトレーニング用品を物色していた。 「何かいいものあった?」 「あ、湊さん、このルームランナーなら家の中に置いて貰っても邪魔じゃないかなあと考えてました」 そう言われた先を見てみると、折り畳み式の小型のルームランナーが展示されていた。大きさは精々台車程度で、かなり薄型のようにも見えた。 「欲しいなら買ってく?」 「いや、大丈夫ですよ、これ以上湊さんのお家に物を増やしたくないですし、走りたかったら埠頭の方まで行けば良いですから」 北くんの言うことも一理ある。実際、俺の家は三人で半同棲状態になってから、二人の私物が増えてそれなりに手狭になってきている。俺は特にそれについて不便は感じていないが、北くんは気にしているようだった。そんなの気にしないでも良いのにね。 「ねえ、ウサギのおやつ見に行っても良いですか?」 三人で合流すると、大崎くんはペットコーナーに行くのが待ちきれない様子だった。大きいカートをぐいぐい押して前に進む。犬、猫、爬虫類コーナーを通り過ぎて魚の水槽に差し掛かったところで、大崎くんは足を止めた。 彼の目線の先にあったのは、小さな四角い水槽の中でゆらゆら揺れるベタだった。展示用の値札には三千円と書いてあるが、実際水槽に貼られている値札シールには六百円と記されていた。 「売れ残っちゃったのかな」 水槽のベタは、ヒレは鮮やかな青色だが、体は白みがかったピンク色をしていた。大方、このちぐはぐな色彩が美しくないという理由で売れ残ったのだろう。 大崎くんが、じっとベタを見る。 「僕、この子を連れて帰りたいです」 ベタは静かに尾ひれを揺らす。北くんが少し困った顔で俺を見た、あの家の家主は俺だから。大崎くんが水槽の縁を指でそっとなぞると、ベタの黒い瞳はそれを追いかけた。 「じゃあ、みんなで飼おうか」 俺の返事に、大崎くんは心底嬉しそうに笑う。北くんは驚いているようだった。 「前に飼ってたベタの水槽があるから、帰ったらそれに入れ替えてあげよう」 「はい! お魚用のご飯も買わなくちゃですね!」 カートをその場に置いて、魚の餌を探し始める大崎くんに気づかれないように、北くんが小声で俺に耳打ちする。 「大丈夫なんですか、お魚を飼うなんて」 「うん、前にも飼ってたことあるし、それに二人も面倒見に来てくれるでしょ」 「それは……まあ、そうですね」 実際、週の大半は二人、ないしは三人で会っているし、二人には俺のマンションの合鍵を渡しているので魚を世話するのに大きな支障はないだろう。 「それにしても意外でした、湊さんがペットを飼っていたなんて……もしかして、前にお付き合いしていた人に押し付けられたとか?」 「北選手、せいかーい」 「当たっても嬉しくないです」 北くんとじゃれ合っていると、大崎くんが小さな水槽用の備品や餌を探して持って来る。 「調べたけどこういうのがいるみたい」 「そうですよね、生き物を飼うには色々な準備が必要ですよね」 大崎くんはカゴから一つずつ取り出して見せてくれた。 「空気を送るポンプでしょ、餌、あと砂利も少し入れるんだって」 「いいね、カルキ抜きも買おうね」 昔家にベタがいた時にも買った覚えはあるが、死んだ後どうしたか記憶がないし多分捨ててしまったんだろう。当時のことを思い出しつつ、俺も飼育に必要なものをカゴに入れていく。温度計や掃除用のアミなど、ベタ関連のものだけで恐らく一万円は超えそうだ。 「帰ったら水槽、みんなで洗おうね」 「はい! 楽しみだなあ、僕もう名前考えたんです」 「何て名前にするの?」 大崎くんはベタの入った小さな水槽を大切そうに両手で抱える。 「フリル、ふわふわして柔らかそうで、すごくきれいだから」 「かわいい名前ですね」 「オスじゃない、この子? ラベルに『ベタ オス』って書いてあるよ」 「そうなんだ、僕たちみたいでかわいいです!」 大崎くんはニコニコしながら「よろしくね、フリル」とゆらゆら水の中で揺れるベタを覗き込む。その体はよく見ると青からピンクのグラデーションが鮮やかで、確かに俺たちにぴったりの魚かもしれないと思った。 𓆟 𓆟 𓆟 フリルは俺の家のリビングで暮らすこととなった。家にあった水槽はすっかり収納として使っていたので、中に入っていた雑貨や季節ものの服飾品を三人で取り出して魚が住めるように準備した。 カルキ抜きも数十分で終わり、大崎くんがフリルを買ってきた小さな水槽から、みんなで用意した大きな水槽に移し替える。ふよ、ふよと体全体を揺らして、フリルはすぐに大きな水槽の中で泳ぎだした。その姿はまるで、本当にフリルたっぷりのドレスでも着ているようで、俺たちは暫くその姿に見とれていた。 「きれいだね」 「ね、僕お魚って飼うの初めてだから、とってもドキドキです」 「僕も、子供のころに実家で金魚を飼っていたくらいなので、ペット自体久しぶりで……」 フリルの尾ひれはよく見ると少しずつ切れ目が入っていたり、白けたりしていた。鱗もピンクや青にまだらに光っていて、あまり統一感はない。それでも俺たちにとって、彼はすごく素敵な魚に思えた。 三人で小さな魚の世話をするのは楽しかった。俺はこの新しくやってきたベタの面倒を見ることで、かつて死なせてしまったベタへの罪滅ぼしをしているような気持ちにもなった。もちろん、そんな風に思っていることは一度も二人には言わなかったが。 大崎くんも北くんも、用がなくとも魚の面倒を見に俺の家に来るようになった。大崎くんに至ってはほぼ毎日、短い時間だけでもと、フリルの様子を見に来た。もともと実家でうさぎを飼っているのも関係しているのか、そもそも生き物の世話をするのが好きなのだろう。約束していない日でも、俺が仕事から家に帰ると大崎くんが俺の家にいて、フリルの水槽を掃除していたこともあった。 大崎くんは、よく水槽の写真を撮った。写真に撮ったらきれいだけど、本物のほうがもっときれいだと言って笑っていた。ユニットの練習の時などに、何度もメンバーに見せてはフリルの話をしていた。湊さんと北くんと一緒に飼ってるんです、きれいなお魚で名前はフリルって言います。饗庭くんは女の子でも褒めるみたいに、フリルを褒めた。伍代さんと羽振さんは、そういえばベタって前にも流行ったよなあと言って、昔を懐かしんでいた。 「にしても、結構デカいな」 「そうなんです、売れ残ってたから子どもではないのかも」 「へえ、いくらで売ってたんだ?」 「六百円です!」 そうかあ、と言って羽振さんは少し渋い顔をする。そうして大崎くんに気づかれないように、こっそりと俺に耳打ちしてきた。 「なあ、ベタなんて一、二年は生きりゃ良い方だ、ありゃもうそんなに長くはねえんじゃねえかな」 「普通の五分の一の値段で買いましたからね、訳ありだとは思います」 ベタの一生は短い。あのホームセンターですでに一年売れ残っていたとすると、フリルに残された時間はあと数か月というところだろう。俺の家に来てからももう三か月、季節の移り変わりを、俺たちはこの魚と共に過ごしている。 「お前と北は大丈夫だろうが、大崎がどうだろうなあ」 羽振さんはいつか来る日のことを心配していた。すべての生き物に平等に、いのちが終わるときは来る。 「俺も北くんもいますし、大丈夫だとは思いますが、何かあれば相談させてください」 そう言う俺の肩を羽振さんがこつんと小突く。 「まあ何だ、ヘンな話して悪かったな、俺もアイツのことが可愛くてよ」 みんな大崎くんが好きなのだ。ユニットメンバーの羽振さんも、俺も、そして北くんも。悲しいことが起こる日が、どうか先送りであってほしいと思う。避けられないのは仕方がないから、せめて一日でも長くこの楽しさが続いたら良い。 𓆟 𓆟 𓆟 𓆟 そうしている間に、次第にフリルの動きがゆっくりになってくる。もともとあまり活発なほうではなかったが、ぼんやりと漂っていることが増えてきた。餌も食べ残すので、大崎くんがマメに水槽のケアをしている。買ったときから大き目の個体だったし、以前羽振さんが言っていた通り、買った時点で生後一年以上は過ぎていたのかもしれない。俺の家で半年もこうして元気でいてくれただけでも、もう充分だった。 大崎くんは、水槽用のヒーターを買ってきてフリルが少しでも過ごしやすいようにと水を温めた。図書館でベタの本を借りてきて、読んだりしているらしい。 「おじいちゃんになると、色がだんだん薄くなってくるみたいです」 大崎くんははらはらと水槽に餌を撒きながら言う。フリルはゆっくりと水底に落ちてゆく餌を啄んでいた。その体の色は買ってきた当初よりも鮮やかさが欠けていて、彼がもう年老いたベタになっていることが伺えた。年老いていても、俺たちにとっては可愛い魚だった。大きなヒレを優雅に揺らして泳ぐ姿は、いつまでも見ていたいと思った。 その日、俺が家に帰ると大崎くんと北くんがリビングで水槽を囲んでいた。大崎くんは泣いていた。フリルは水面にぷかぷかと浮いていて、丸いお腹をころんと横に向けていた。大崎くんが水の中に手を入れて、フリルが沈んでしまわないよう大切そうに両手で包む。大崎くんの暖かい手は、フリルが最後に休むためのベッドになっていた。 「フリルが動かなくなっちゃった」 大崎くんの瞳からぼろぼろと零れ落ちる涙が、水槽の水に混ざっていく。北くんは泣いてこそいなかったが、寂しそうな顔でただ大崎くんの肩を優しく撫でていた。 「埋めてあげようか」 自然とそう口から漏れていた。生き物の死体は公園や、マンションの前の街路樹には埋められない。実際俺だって、前に飼っていたベタを生ごみとして処理していた。それでも、俺は目の前で悲しむ俺の後輩と、俺たちと暮らしてくれた小さな魚に何かしてあげたいという気持ちが大きかった。どうにかならないだろうか。何かしら検索しようとスマホを取り出したタイミングで、羽振さんから着信がある。 『よお、大丈夫か』 「羽振さん、大丈夫ではないかも、フリルが死んじゃいました」 『うわ、それは、ご愁傷様』 大崎くんが声を震わせて泣く。俺が羽振さんにフリルの死を伝えたことで、死んでしまったという事実がより現実的なものに感じられたのだろう。 「お墓、作ってあげたいんですけど埋められる場所がなくて……」 俺が公共の場で生き物の死骸を埋められない旨を伝えると、羽振さんは少し黙って考えた後にこう言った。 『じゃあよ、俺っちのスタジオの鉢植えに植えりゃいいだろ』 観葉植物ならたくさんあるし、何だったらお前らが草の世話もすりゃ良いだろう、と羽振さんは言った。スピーカーにはしていなかったが、漏れ出る音が聞こえたのか、大崎くんは服の肩のあたりで涙を拭ってお礼を言う。 「羽振さん、ありがとうございます、僕今からそっちに行きます」 今から、と思ったが、確かに死んでしまった魚を水槽に浮かせておくのも忍びない。 「俺が車を出すので、今から行っても良いですか?」 『おお、良いよ、こっちも準備しておくから』 そうして電話は切れる。良い先輩を持ったな、と思った。もちろんこれは大崎くんの人徳もあるのだけれど。俺は二人に声をかける。 「ということだから、羽振さんのスタジオに行くよ」 二人が頷く。大崎くんの手のひらでは、淡くなった青と殆ど白になってしまったピンクのグラデーションが、水面に沿ってふよふよと揺れていた。 𓆟 𓆟 𓆟 𓆟 𓆟 浜松町から田町まではほぼ一本道だ。信号で止まることもあるが、車移動ならば十分程度で到着する。そんな道のりが、やたらと遅く感じられた。俺がハンドルを握って、後部座席に北くんと大崎くんが並ぶ。フリルはうちに来た時と同じ小さな水槽に入って、大崎くんにしっかり抱かれてゆらゆらと水の中を漂っていた。その身がぷかりとお腹を空に向けて動かないことと、大崎くんが泣き腫らしてうさぎみたいに目を真っ赤にしていることだけが、来た時と違っていた。 レッスンスタジオは、ちょうど誰もいない時間帯のようだった。駐車場に車を停めると、中から羽振さんが電子タバコを咥えたまま出てくる。 「よお、来たか」 「ありがとうございます、突然だったのに」 「良いってことよ」 そう言いながら羽振さんは、エントランスに置いてあった大きな鉢植えを見せてくれた。 「こんくらいデカかったら大丈夫だろ、スコップとかいるよな」 大崎くんが黙ったまま頷く。手にはまだフリルの小さな四角い水槽が大切そうに抱えられていた。 「おお、こりゃあ立派なベタだ、長く生きたんだろうな」 羽振さんがフリルを見て大袈裟に驚いて見せると、大崎くんはちょっと自慢気にえへへ、と笑った。わしわしと羽振さんが大崎くんの頭を撫でる。髪の毛がくしゃくしゃになったが、誰もそんなこと気にしなかった。 羽振さんが持ってきてくれた小さなスコップで、北くんが植物の根元を掘る。土を掘り返すときに、細い根を傷付けてしまわないよう、慎重に。こういうのは北くんが一番得意だ。充分に穴が掘れたら、大崎くんが水槽に手を入れてそっとフリルの体を持った。まるで繊細で壊れやすいガラス細工でも持つかのような手つきで、ゆっくりと、確実に。俺たちはこの小さな魚との別れを惜しんでいた。 「ありがとう、僕、いっぱい楽しかったよ」 三人でフリルの体の上に柔らかい土をかける。羽振さんは手を出さずに、ただ見守ってくれていた。小さな青とピンクの模様は黒い土で覆われて見えなくなり、そこに残ったのは大きな鉢植えと植物の木の幹だけになる。水の中でふわふわと揺れる尾ひれがフリルのようで美しかった。大崎くんと北くんだけじゃなく、俺だってこの小さな魚が好きだった。家で一人になる時には、気まぐれに話しかけたりもしていた。それももう終わってしまった。 全てが済んだころ、やっと俺自身もフリルの死を実感していた。生き物が死ぬのは仕方ないことだが、なかなか、こうも寂しいものだとは。また俺は昔に飼っていたベタのことも思い出していた。名前もないまま、ごみとして捨てられてしまった小さな魚。俺はきっとそいつのことも、この先幾度となく思い返すことだろう。人間の一生は、小さな生き物の一生と比べると余りにも長すぎるから。 「ねえ、この鉢植えはどんな花が咲くんですか?」 大崎くんが鉢植えをエントランスに戻しながら、羽振さんに尋ねた。羽振さんは少し考えてから、知らねえなあと言って、また言葉を続けた。 「まあ、何かしらは咲くんじゃねえかなあ、今度、英に手入れの仕方聞いてみよう」 「はい!」 大崎くんは笑う。その目尻にはまだ少し涙が溜まっていた。俺はそれをそっと指で拭って、そのまま彼の頬を撫でる。たくさん泣いたせいか少ししっとりしていて、温かかった。初夏の日差しは眩しく、風が俺たちの間を抜けてゆく。遠くでセミの鳴く声が聞こえる。 日光を遮ろうと目元に手を当てた時、俺は初めて自分が泣いていたことに気が付いた。